老子次右衛門(おいごじえもん)〜名鐘づくりの開祖〜

 梵鐘づくりで有名な老子家の7代目次右衛門は明治11年(1878)に6代目老子家の長男として金屋町に生まれた。本名喜八。
老子家は代々鋳物業を営んできた家系であり、福岡町旧五位山村老子の出身らしい。
 喜八が14才なった明治25年、前田利長の産業振興策により金屋町へ招かれた鋳物師7人衆の子孫、喜多万右衛門(現釜万鋳工)の職人となった。

 喜八の最初の仕事は、当時鉄の精錬法であった”たたら炉”の板人であった。鋳物作業は大量の金属を溶かすため、大型のたたら(ふいご)の上に板人といわれる数人の男が乗り、足で踏んで炉に風を送る作業であり、徹夜で続けられる。かなり過酷な労働であったと推察される。
ただ、単純な作業なので誰からともなく歌がでた。現在も継承されている弥栄節である。歌詞は「河内丹南鋳物の起こり、ヤガエフ、今じゃ高岡金屋町エーヤガエフーー」。囃子(はやし)言葉を言いながら調子を取ったのかもしれない。哀調を帯びた歌である。とにかく喜八は”たたら”を踏んだ最後の職人となった。

 その後喜多家で鋳物造りの技術習得して、明治43年(1910)独立した。
次右衛門33才であった。
独立後、梵鐘の鋳造を主としたが、作業の機械化、近代化、技術改良に余念がなかった。 そして大型鋳物の大量生産を可能としたのである。さらに生涯の課題であった梵鐘の音色と形を求めて心血を注いだ。

 仕事一筋の次右衛門は、毎朝3時には起床し、先ず宮参りをしてから仕事に就くという非常に厳格な性格の持ち主であった。また製造過程で秘伝の部分は「人には見せられない」と言って従業員の帰宅後、1人で仕事をしたものである。

 昭和16年8月に金属回収令が公布され、寺院の梵鐘は言うに及ばず機械、金属製品、日用製品に至るまで供出させられ、それらは武器となった。
戦後の22〜23年頃から梵鐘を供出した寺院から徐々に注文が出され、次右衛門は誠意をもってその製作にあたり、高岡の梵鐘を全国的に有名にした。
代表的なものに井波別院や城端別院、八尾の聞名寺の鐘がある。

 昭和23年、株式会社老子製作所を設立。
梵鐘の注文は昭和28年〜29年年頃がピークで、月に十数本のペースで鋳造した。それ以降は横ばい状態となったが全国各地からの注文は、年間百個を下ることはなく、「老子の梵鐘」は国内80%のシェアをもっている。

 次右衛門はデザイン技術指導に香取正彦氏(人間国宝)を迎え、日本一の梵鐘作りの名人として不動の地位を築いた。

 昭和44年(1969)5月、二上山に「平和の鐘」が建立された。この鐘には次右衛門の秘伝が生かされ、老子家10代目の元井忠信(娘婿)によって日本で四番目に大きい鐘が製造された。
この鐘には「世界平和と人類の幸福」の願いが込められている。
7代目次右衛門は、昭和37年(1962)に84歳で没したが、数多くの鐘の内部に刻まれた「高岡市鋳物師老子次右衛門」の名は消えることはないだろう。その証として、黄綬褒章、紺綬褒章、勲六等単光旭日章等を受賞している。
 心の琴線に触れるような鐘の音とその余韻、聞く人により感じ方は様々であるが、感謝、反省、喜び、勇気、忍耐の気持ちを抱くのは私だけでは、ないと思う。

、 高岡市立図書館広報誌:山崎なぎさ
参考資料:越中百家、郷土の先覚100人、高岡ミニ人物史、高岡の町々と屋号

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