二代藩主・前田利長は、高岡とは深い縁で結ばれています。
いろいろあって秀吉が病死。頼みにしていた父・前田利家も半年も経たないうちに病死しします。
前田利常に三代家督をゆずり、13年後富山城に移りますが、失火後新城構築の段になると迷わず、またこの地(高岡)を選んでいます。設計は築城術の名手、高山右近の手になっています。
高岡の歴史
開町当時は士臣434人と町屋630戸で成っていて、その町割りは北陸街道が城下の中央を南北に貫くように導かれ、これを中心にして碁盤の目状に整然と区画されていました。
城下町整備にあたり利長は多くの職人衆を呼び寄せました。
七人の鋳物師(高岡銅器の起こり)、漆器(高岡漆器)、捺染(布地に模様を印刷)象嵌(加賀象嵌の始まり)すべて慶長年間に始まっています。
若い頃から父前田利家について各地を転戦。父利家についで信長から府中城を預けられます。
20才のとき、織田信長の五女永姫を妻に迎えます。大名には珍しく側室をもちませんでした。
4年後には越中三郡を与えられて守山城(二上山)に移ってきています。
徳川家康は本性をあらわし、加賀謀反説に乗ったかたちで、取り潰そうとしました。
前田利長の母まつは自ら人質として江戸に赴き危機は回避されました。
その後関が原の合戦で、東軍(家康郡)に加担したので、戦後、加賀西二郡を加増されて、加賀・能登・越中の三か国を領有、支藩も加えて百二十二万二千五百石の太守となりました。
参考文献
「加賀百万石物語」酒井美意子著 主婦と生活社